講演会記録

緊急ウェブセミナー「今こそイスラエルのために執り成しを!」

2020.3.28


日本よりも数週間遅れでコロナウイルス感染者が出たイスラエル。その後、感染者数が急増して、日本より深刻な状況になっています。外国人がほとんど帰国したエルサレムに残る日本人から最新情報を聞いた後「執り成し」について学びました。メッセージ部分のみ掲載いたします。
メッセージ:「執り成しの祈りとは」
石井田直二(シオンとの架け橋代表・聖書研究会牧師)

セミナー後半は、執り成しの祈りについて学びましょう。
コロナウイルスをめぐる今の日本やイスラエル、そして世界の状況から、クリスチャンである私たちが、どのように祈ればいいのでしょうか。

1)聖書における「疫病」の考え方

多神教である日本の常識で考えれば、神仏に病気の流行を抑えるようにお願いする場合は、当然、その病気を発生させたのはその神仏ではありません。たたりを起こす悪い霊、悪魔や、悪霊、あるいは「偶然」が災いを起こすので、そこから助けてくださいと、神に祈ります。
でも、私たちが信じている聖書の神は、全宇宙を支配しておられる神です。髪の毛一本、神の許しなしには落ちることはありません。悪魔もまた、神の支配下にあります。ですから、神の目を盗んで悪魔がコロナウイルスをばらまく、等ということはありえません。仮に悪魔がウイルスをばらまいたとすれば、それは神が、深いご計画によって、それを許されたのです。今回のコロナウイルス感染にも、その背後に計り知れない神のご計画があると考えなければなりません。

コロナウイルス感染症は、社会学的に見て非常に特異な病気です。致死率が1~2%と、かなり低いのに、世界の文明国と言われる国々に史上最悪とも言えるパニックを起こしました。でも、違った視点もあります。先日、三大感染症と呼ばれる、エイズ・マラリア・結核と戦っている人々の意見が新聞に掲載されていました。これらの病気で毎年300万人が死んでいるのに、文明国の人々はずっと無関心だった。ところが、開発途上国でよくあることが文明国で起こると、こんなに大騒ぎするとは…、と驚いているというのです。
確かにそのとおりです。途上国では、多くの人々がまともな治療も受けられず、次々に死んでいます。コロナウイルス感染拡大は、世界について、人の命について、また病気について、立ち止まって考え直すべき、良い機会ではないかと思います。

2)旧約聖書から学ぶ

「パンデミック」という言葉は、聖書にはありません。聖書では「疫病」と言います。
旧約聖書には疫病や病気という言葉が100回あまり登場しますが、そのほとんどにおいて、神がある目的のために疫病を送り、また神がそれを止められています。そのような例を、旧約聖書から一つだけ取り上げて学んでみましょう。聖書箇所はサムエル記下24章です。
ここは、ダビデの王権の末期の出来事です。彼は人口調査をしたため、神の怒りを買いました。人口調査が神を怒らせる、というのは今日の感覚では理解に苦しみますが、たぶんダビデは神がイスラエル王国を運営しておられることを忘れ、自分の力、人間の力を信じるようになったのではないかと思います。
そこで神は、ダビデに以下の3つの罰から一つを選ばせました。

・三年のききん(ヘブライ語では、なぜか七年となっているの)
・敵が攻めてきて、三か月敵の前に逃げる
・三日の疫病

たった三日の疫病というのは期間が短すぎるようにも思いますが、とにかく聖書はそう書いています。皆さんがダビデの立場だったら何を選ばれるでしょうか。これは究極の選択ですね。そこでダビデが預言者ガテに答えている24章14節から聖書を読んでみましょう。

24:14 ダビデはガデに言った、「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。わたしを人の手には陥らせないでください」。
24:15 そこで主は朝から定めの時まで疫病をイスラエルに下された。ダンからベエルシバまでに民の死んだ者は七万人あった。
24:16 天の使が手をエルサレムに伸べてこれを滅ぼそうとしたが、主はこの害悪を悔い、民を滅ぼしている天の使に言われた、「もはや、じゅうぶんである。今あなたの手をとどめるがよい」。その時、主の使はエブスびとアラウナの打ち場のかたわらにいた。
24:17 ダビデは民を撃っている天の使を見た時、主に言った、「わたしは罪を犯しました。わたしは悪を行いました。しかしこれらの羊たちは何をしたのですか。どうぞあなたの手をわたしとわたしの父の家に向けてください」。

その後、ダビデがその打ち場をアラウナから買い取って、祭壇を築いて犠牲をささげると、災は止まりました。アラウナの打ち場の値段がいくらだったかについては、歴代志と記述が違うのですが、それはさておき、ここで重要なのは、神ご自身が疫病を送り、また神ご自身が疫病を止められたことです。
さてこの個所について、多くの注解者たちが注目する、解釈上の問題があります。

3)「定めの時」とは

それは15節の「朝から定めの時まで」という表現です。これは前述の箇所から考えると三日間ということになりますが、この個所はやや不自然です。普通なら「その日の朝から三日間」と書くのが自然です。
「朝から定めの時」まで、というと、何となくその日のうちの特定時刻だというニュアンスが出て来ないでしょうか。私も、「おやっ」と思って調べてみました。すると、そう考える注解者が多いことがわかってきました。
この「定め」はヘブライ語で「モエド」という単語で、「定めの祭」や「人と会うこと」さらに「集会」などの意味もあります。そこで、ヒエロニムスなど、多くの聖書注解者が「定めの時」を「夕べの礼拝の時刻」、つまり午後3時頃だと解しているのです。
新約聖書にもよく引用される、旧約聖書のギリシヤ語訳(七十人訳/セプチュアギンタ)は、さらに極端で、何と「朝から昼まで」と訳しています。

彼らがそう解釈する根拠の一つは、次の16節で「主はこの害悪を悔い」と書かれてあり、神が御使いを止めておられることです。神は最初に宣言した三日間の最後まで疫病を続けず途中でやめた、というニュアンスは明白ですね。ですから、「その日のうちに疫病が終わった」という注解者たちの解釈は、正しいのではないかと私は思います。

ダビデは最初に「主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください」と言って、疫病を選びました。ダビデは多くの罪を犯して何度も神に叱られているので、叱られた時にどうすべきか、よく心得ていたのです。
イスラエルの敵、聖書の時代はアッシリアやペリシテ人、今で言えばハマスやヒズボラが攻めてきたら、「大いなるあわれみ」で、途中で攻撃をやめるなどということはありえません。でも、神はダビデのひそかな期待どおりに、大いなるあわれみによって災いを途中で止められたのでした。

4)サムエル記下24章から学べること

第一に、聖書の教えによれば、神が何らかの理由で人に疫病を送られる、ということです。それはたいてい、人を悔い改めに導いて、ご自分に帰らせるためなのです。

第二は、神がその疫病の期間は縮められることがある、ということです。神が何でも予定通りに日程をこなされるのなら、今日のテーマである「執り成し」の意味はありません。それはちょうど、映画館で映画を見ながら「あの主人公を助けてやってくれ」と映画館の支配人に頼むようなものです。でも、神は映画館の支配人とは違います。私たち人間の祈りよって、災いを短縮されることがあるのです。

第三は、ダビデが「これらの羊たちは何をしたのですか」と言っているように、この疫病が指導者の間違いに対する集団的処罰だ、という点です。疫病で死んだ人たちだけが、特に罪が重かったわけではありません。人はみな等しく罪人であって、特に悪人だけが疫病にかかるわけではないのです。

この疫病はダビデ王の罪に対して起こったのですが、それは、正しい王を迎える時に疫病が止まることをも意味します。そして幸いなことに、私たちには義なる王、イエス・キリストがすでにおられます。私たちは、彼がもうすぐ主権によって世界を支配される時を待ち望んでいます。その時、もはや疫病は無くなる(黙示録21:4)のです。

5)新約聖書時代でも神は災いを短縮されるか

さて、旧約聖書においては、神が人に災いを与え、人の反応によって災いを軽減されることを学びました。この原則は新約時代、あるいは終末時代でも適用されるでしょうか。
適用されると、私は思います。マタイによる福音書24章の「小黙示録」と言われる個所にも、このような言葉があります。

24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
24:22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。

「縮める」ということは、神のご計画には変更があるということです。
イスラエルには、「予定は変更の始まり」という格言があるとのことです。イスラエルの神は、最終目標、つまり黙示録の最後の章に描かれた世界を変更されることはありませんが、それまで道筋は、状況に応じて変更されるようです。
だから神がご計画を早くお進めになるように、私たちは「マラナタ!」「来たりませ!」「バルハバ・ベシェムアドナイ!」と叫ばなければならないのです。

6)執り成しの祈り

コロナウイルスが気温の上昇で自然に終息するのか、治療法が確立して怖い病気でなくなるのか、あるいはワクチン製造に挑戦しているどこかの研究チームが成功して終息するのか、私たちにはわかりません。でも、それもすべて神の主権の支配のもとにあります。

ですから、私たちは神に御心を変えていただき、この災いを短くしていただくために祈る必要があります。ダビデも詩編の中で、何度も御心を変えていただくように神に祈っていますが、すでにダビデは学んだので、次は預言書を取り上げたいと思います。ヨエル2:12~から学んでみましょう。
ここは、イスラエルに敵の攻撃が迫る中で、祭司が決死の執り成しをするくだりです。私たちクリスチャンもまた、新約の祭司とされているので、この個所から執り成しの原理を学ぶことができます。

2:12 主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 2:13 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。 2:14 神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。

「災いを思いかえされる」のは、神の重要なご性質です。でも、「だれが知るだろうか」とあるように、執り成しの祈りは、必ず聞かれるとは限りません。それでも祭司は執り成しの祈りをすることを求められています。続きを読んでみましょう。

2:15 シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集し、 2:16 民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。

吹きならすラッパは、このショファーです。今のような状況でみんなが集まるのは良い考えではありませんが、心を一つにして祈る必要はあります。

2:17 主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください。どうしてもろもろの国民(くにたみ)に、『彼らの神はどこにいるのか』と/言わせてよいでしょうか」。
2:18 その時主は自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれた。

7)神が災いを思い返される三要因

神は以下の3つの要因で災いを思い返されています。

第一に人が悔い改めること。これは基本的です。神は人を悔い改めに導くために災いを起こされるわけですから、人が悔い改めれば災いを止められます。その典型的な例は、ヨナ書にあります。
第二は祭司が執り成すことです。祭司か、あるいはその立場にある人が執り成すと神は時に聞き入れてくださいます。モーセは神に執り成し、神は御心を変えられました。私たちクリスチャンも祭司とされているのは執り成しのためです。
第三は、神ご自身があわれみを起こされることです。最初に学んだ例では、ダビデ王の罪のゆえに下された疫病は、神のあわれみで止まりました。

そこで、祭司は、廊と祭壇との間、つまり人々と神との間に立って、人々には悔い改めを呼びかけ、神には涙であわれみを乞い求めなければなりません。
このヨエル書の祭司が「もろもろの国民(くにたみ)」を引き合いに出して神に訴えているの、非常に興味深いことで、重大な意味があります。
神がイスラエルを選び、またイスラエルを罰しておられるのは、諸国民の前に「イスラエルの神」の栄光が現れるためです。ところが、これ以上イスラエルを苦しめたら逆効果だと、祭司は泣いて神に訴えるのです。これは、神がイスラエルの民を滅ぼすと言われた時に、モーセも使った論法です。彼は出エジプト32章で「そんなことをしたら、エジプト人にひどい神だと言われますよ」と執り成しました。神が諸国民の評判を気にして、イスラエルに対する罰を思いとどまられるのは、多くの預言書で何度も繰り返される主題です。
意外なことに、神は諸国民の「評判」をとても気にしておられるのです。イスラエルのために執り成すとき、異邦人から「祭司」とされた私たちには、これを知らなければなりません。異邦人の立場からの執り成しは、とても重要なのです。

8)エルサレムの重要性

さて、最後に執り成しにおけるエルサレムの重要性をお話ししましょう。最初に学んだサムエル記下23章で、天の使いがまさにエルサレムを撃とうとしたとき、神は「もはや、じゅうぶんである」と言われました。その場所、エブス人アラウナの打ち場は、実は現在の神殿の丘なのです。
主の怒りによる疫病が止まった時、ダビデはその場所の重要性に気づき、その場所を買い取りました。その場所に後にソロモンが神殿を建てました。異邦人がそこで祈る時に、それを聞き入れるようにと、ソロモン王は神に祈って(列王記上8:41-)います。またエルサレムこそは、義なる王イェシュアが来臨される場所です。その時、人の目から涙が取り除かれるのです。それこそが私たちの希望です。

旧約聖書に100回あまり出てくる病気・疫病はすべて、神が人に対する罰として起こされたものだと最初にご説明しました。そして新約聖書にも、同じくらいの回数「病気」という言葉が出て来ます。
しかし、その文脈は、もはや神の処罰という文脈ではありません。イエスとその弟子たちが「病気を癒す」という文脈で登場するのです。人類の罪を取り除き、あらゆる涙を止める鍵は、エルサレムにあり、また私たちクリスチャンが持っているのです。共に祈って行きましょう。